人に見られるために生き、人に聞かれようと長々しい祈りを唱える、
パリサイ人のようであってはなりません。
彼らは肉の心にすでに報いを受けているのです。
宮に入り、目を上げずに胸を叩き、
「神よ、罪人の私を憐れみたまえ」
と祈った人のようでありなさい。
(リーディング番号:3976-27)エドガー・ケイシー文庫031 知恵の宝庫—エドガー・ケイシー名言集 P262
昨日の自戒のために引用。
祈りや善行など、誰かが見ているからといってやるのはパフォーマンスに過ぎません。
ただの演技です。
それが行為だったら「やらない善よりやる偽善」と、動機がどうあれ何かの役に立ちます。
しかし祈りでは心を静め、その祈りの対象に自分を委ねることで精神を透徹させていきます。
それはパフォーマンスだと全く不可能な事です。
また冒頭の言葉には
「肉の心にすでに報いを受けているのです」
とあります。
これは肉=物質主義と言えるでしょう。
実際パリサイ人は形骸化した儀式的宗教にこだわり、その精神性の部分は堕落していたそうです。
そして肉の心は、それだけで報い(言い換えると罰)だというのです。
これは実感していない人にいくら言葉で伝えようとしても不可能でしょう。
しかし精神性のない生き方では、そのように実り少ないものになるのです。
theme : スピリチュアル
genre : 心と身体