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(今回は完全に私的な書き込み。チラ裏でしかない書きなぐりです。)
人の死ほど諸行無常を感じるものはないでしょうね。
今日、祖母が亡くなりました。
それで寝付けないので、ベッドから這い出てこんなものを書いています。
平均余命よりはずっと長生きしたのですが、それでも「ああしていれば」という思いがいくつかわいて来ます。
自分は直接には世話をする立場ではないのですが、周りに助言は伝えていたんです。
でもそれは聞き流されて、それが結果的には怠慢となり今回の事になっています。
その因果関係が本当にそうなのか、私の助言の通りに無理にでもさせていれば、このようになっていないのか、それが分からない事であるのは理解しています。
ただ、悔いが残ってしまいます。
言っても相手が動かなかったことで、自分の中にも諦めの気持ちでいましたから。
だから自分も怠慢なんですね。
こんなことになるとは思わなかった。
だから「まあいいや」で済ませていた。
そのために、死んだ。
どうしてもその思いが頭の片隅にこびり付いています。
これも学びなんでしょうね。
手痛い学びですが。
しかし他人に「学び」なんて言われたらボコボコにしてやりたい気分です。
ただ私が勤める病院でのことでしたので、最後はよく関わる事ができました。
声をかけたり、手をにぎったり。
午前中に病院に来て、検査が必要だったので移動の時など手を握ったりしていました。
その時はまだ祖母の声は出ていたのですが、夕方近くになると息がゼェゼェと荒いのが増し、声をかけても反応がなくなり、でも手を握ると握り返すことはありました。
そして院内の研究会があっていた時に内線があり、すぐに向かいましたが永眠した後でした。
午後6時のことです。
認知症で何をされるにも嫌がるので、手を握るというよりも、手を押さえていたことも何度かありました。
そういう時はかなり暴言を吐かれました。
認知症はだいぶ前からなのですが、つい最近までは私のことを認識していました。
顔を出すと「やすなりかい」と。
それが本当に、急に悪くなってしまいました。
でも、今頃はもう楽になっているのかな。
もしかしたら死って当事者にとってはこっけいな事なのかも知れませんね。
本人は楽になってせいせいしているのに、周りは嘆き悲しんでいるのですから。
最後にかけた言葉が「ありがとう」だったのが私にとっては救いです。