神の計らいについての有名な例え話です。
ある信仰心の深い、自分は、敬虔だと思っている牧師がいました。
あるとき、大洪水がその牧師の町を襲い、牧師は屋根の上に避難しました。
しばらくして救助隊が船で助けにきましたが、その牧師は「自分は神様を信仰しているので、神様がきっと助けてくれるから、ほっておいてください。」と言って、救助隊に耳をかさないので救助隊は他の人を助けに行ってしまいました。
しだいに水嵩は増していき、屋根の上もあぶなくなってきました。
すると、さっきの救助隊が引き返してきてくれて、早くこちらに乗ってくださいといいましたが、牧師は、また、「神様が救ってくれるから、必要ない」と言いました。救助隊もあきらめて行ってしまいました。
水かさが屋根の高さまで達した頃、ヘリコプターが救助にやってきました。
「早くこのロープにつかまって下さい!」
しかし、牧師はこのときも、
「心配いらない、私は神が守ってくださるから。」という言葉だけを繰り返し、
結局ヘリコプターは行ってしまいました。
結局、牧師は洪水で死に、神の前に進み出ることになりました。
「私はずっとあなたを信仰し、敬虔な生活を送ってきたのですが、なぜ、あなたは肝心なときに私を助けず、見捨てたのですか?」
すると、神様は言いました。
「私はそなたの隣人に危ないと警告させたし、ボートもヘリコプターも送った。
それらを全て拒んだのはそなたなのに、私にどうせよ言うのだ?」「神を試してはならない」と聖書に書かれていますが、神は願いを叶えてくれる時も、その手段を指定することはできないそうです。
上記のたとえ話では、もっとも大切なことは洪水から助かることです。
神はそのための手助けを3度もしています。
しかし牧師はそれに気づかず、神の奇跡といった自分が理想とする方法に固執します。
要するに、この牧師は素直ではなく本質を見誤っています。
素直さがないのは傲慢のためです。
「自分は正しい」と思うことは、「相手は間違っている」と言っているのと同じです。
人を見下す誤った自尊心はうぬぼれに過ぎません。
世の中には自分へのメッセージが溢れています。
俗的には「転んでもただでは起きない」という言葉もありますが、何からメッセージを受け取るか、何から学ぶか、何からチャンスを見出すか、それは自分次第です。
物事をはじめから決め付けた見方をしてしまうと、この牧師のようなことになってしまうでしょう。
言い訳をせずに全てに大して素直な、謙虚な態度でいることが、神の手助けに気づく手段です。
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